大人になって分かった「虎の威を借る狐」は自分の価値を落とすことに余念がない人だった
キツネさんスゴイ!と思った小学生の私
小学生の頃、私はことわざが好きでした。でも所詮小学生。薄っぺらな人生経験では、到底理解が及ばないものも多くありました。
その代表が「虎の威を借る狐」。
念のため、このベースになっている話は以下です。
キツネがトラに襲われそうになったとき、「私は百獣の王に任命されたんだ。ウソだと思うならついてこい」と言ってトラを従えて歩いたら他の獣たちが逃げていった、というものです。ここでキツネは、「オレってすごい!」とおバカ全開の勘違いをするために、このことわざの意味は「権威を持つ人に頼って、威張る小者」となります。
ところが当時の私には今一つ理解できず、「本当は頭がいいのに、肝心なところで勘違いをしたもったいない人」という理解をしていました。「だって、キツネさんはすっごく怖くて泣きそうなのに、百獣の王だっていうなんてめっちゃすごいやん!」という理解でした。
社会にいっぱいいた、小さな小さなキツネたち
ところが大人になると、気づきます。「虎の威を借る狐」って、あれ??ということに。
「私は〇〇さんと一緒に仕事したことあるんですよ」って名刺交換しただけとか、「〇〇さんに直接ビジネス論を教わってるんですよ」ってセミナーに参加しただけとか。もっと厄介なのは、「私は〇〇と友達なんですよ」と言って聞いてみたらFBの友達かよ!って人もいますね。今はFB友もありだと思うんですけど、せめて個人でメッセージをやり取りしてるとかじゃないと・・・と思うんですけどね。
さらにこじれた人の場合、「私〇〇選手と同じ学校でね」って学年全然違って、もうどうでもいいレベルの自慢を炸裂させる人もいます。話題作りとして使うならOKだと思うんですが、それが自慢になると抵抗感しか感じない。
面倒な人の中には、人生の折り返し地点を過ぎてもなお「私の親は〇〇でして・・・」なんて定年退職した親の「元」職業自慢をする人もいます。会社を引き継いだとかならわかるのですが、そうでもないのに自慢話として話す人は、小さいころに「お前のかあちゃん出ベソ!」って言われて泣いて帰った頃から成長できなかったんだな・・・と切なく思います。
しかも、そんなちっちゃ~い人が「虎」と信じて疑わない人が、他の人から見たら「所詮ちょっと大きい狐」だったりすることもあったりして、もう失笑するのさえもったいない!
自分の価値は「自分」でしかない
キツネが虎の威を借ること自体は、必要なときもあると思います。例えば社会人になって 間がないころに勤務先の看板を利用して自分を大きく見せるとか、「私の取引先に〇〇があります」なんて言うのもありでしょう。
でも、これが許されるのは「若い頃」。自分を高めて見せるだけの価値を構築できていない人が唯一できる技だと思うのです。
(残念なことに?)それなりの年齢になったら、自分の価値は自分で築いたものでしかなくなります。しかも年齢を重ねると、関わる人のレベルもおのずと上がっていき、「お前、トラ従えてるけど、ただのキツネじゃん!」と、しょうもない虚勢はすぐにばれてしまいます。
にも関わらず、「ハイハイ、百獣の王さんwwwwww」なんていうもんだから、多くのキツネは「やっぱ俺って、百獣の王だゎ」と悦に浸る。いや、それ、半笑いで言われてますよ~。語尾に「w」が付きまくってますよ~って感じなんですけどね~。
さらに残念なことに、このおバカなキツネさんは、自分を高めるのではなく、さらにすごいトラを見つけ出したり、トラの数を増やしたりします。するとますます自分との乖離が発生し、逆に自分の価値が低いことを証明するようになっていきます。
ブスな人が、モデル級にキレイでかわいい人に囲まれると、本人は「私もモデル級だゎ~」と思うのかもしれませんが、周りから見たらただの引き立て役。中には仲間だと思ってる美人さんにさえ、便利な引き立て役だと思われている人もいます。
年齢を重ねると、トラ探しに疲れる
改めて、自分の周りを見渡すとキツネがいっぱいいます。私は思秋期ですから、周りにいる人も思秋期やそれ以上の人が増えています。
それでもなお、トラの威を借りようとするキツネは、なんだか疲れて見えるようになってきました。トラを従えるより、自分のレベルで勝負するほうが人生も楽しめると思うのですが、どうなんでしょう?
追い詰められたときに、「俺は百獣の王」と論破できるすばらしさがあるはずなんですけどね・・・
何にしても、必死になってトラを探し自分の価値を落とすなんて、私にはゴメンです。
とりとめがない内容になりましたが、「虎の威を借る狐」は英語バージョンもあります。
[An ass in a lion's skin.]
意味は、「ライオンの皮を被ったロバ」。どっちにしてもイヤだゎ!