思秋期ライターの備忘録

気付けばフリーランス歴18年。インタビュー人数1000人オーバー。48歳の不健康女、原田園子が好きなことだけを勝手に書くBlog

起こるべくして起こったキュレーションメディア問題。素人同士で作ったんだから当然だ!

f:id:radaso:20161207191406j:plain

Welqに端を発し、DeNA関連のキュレーションメディア9つがすべて非公開になりました。次いで、他の大手メディアにも記事非公開化が波及しています。ちょっと考えれば、いつかこうなるのはわかったはず。なのに、実際はちゃんと考えてなかった人が多かったようで、傷が広がったのは自業自得ともいえます。

ということで、実際に私のところに舞い込んできた数々の案件の裏側を、そのまんまに紹介し、自分なりに分析をしていこうと思います。

 

 いい加減な記事量産の裏には、にわかライターが多数存在した

今回の件で、「クラウドソーシングサイトを使って記事を量産した」というのは、すでにあちらこちらで言われています。

これを裏返せば、子供の小遣いのような価格でしょうもない記事を書く「自称ライター」がいっぱいいたことになります。今は「いい加減な記事が量産された」ことばかりがクローズアップされていますが、その裏には「いい加減なライターが量産された」ことにより、被害をこうむっている素人がいっぱいいることにも目を向けるべきでしょう。

ちなみに、キュレーションメディアの記事を書く人を「キュレーションライター」なんて、カッコいいネーミングで呼んだりします。でも実際にやってることは、ただのパクリ屋。

悲しいことに、「マニュアル」という名のパクリ指南書があり、それを鵜吞みにし、「まさか自分が片棒を担いでいた」なんて考えもしなかった(そして今でも考えていない)人が大勢いるのです。

 

キュレーションサイトとクラウドソーシングはともにヨチヨチ歩きのビジネス

この背景には、広告費目当てに簡単にキュレーションメディアを作ってしまったDeNAのような企業が存在する一方で、クラウドソーシングという、まだ歩き始めたばかりのビジネスがタイミングよく存在したことが関係しています。どちらも、まだ成長期をむかえたばかりのビジネスです。

クラウドソーシングは、本来、「企業が企業に発注」していた仕事を「個人に発注」できるようにしたもので、企業に属さない主婦や副業をしたい社会人が簡単に仕事を探せるメリットがあります。

一方。企業側には、「安く仕事を発注できる」という大きなメリットがあります(ここについては言いたいことが山のようにあるので、別の記事で書きますが)。

ここで見事に需給関係が成立したわけですが、ここには大きな問題がありました。それは、まだ正しい答えがでていないのに、双方が素人で、考えが甘かったことです。

キュレーションサイトという新しいメディアと、クラウドソーシングを使って働く場を得た素人同然のライターが、著作権薬事法というものの存在を「チラッ」っと言った(聞いた)だけで分かったような気になり、独自見解のもとに進めてしまったわけですから、問題は起こって当然なのです。

そもそも、今でも「薬事法が」といってる時点でちゃんと分かってないことを証明しているわけですが、そんなことが分かるはずもない方々がたくさんいて、そうゆう人たちがキュレーション記事を量産していったことを理解しなければいけません。

 

それでも、なくなるべき存在ではない

さて、私はこれから、いくつかの切り口で、今回の一連の騒動に対する個人的な見解を文章にしていくつもりなのですが、望みはひとつ。

この騒動をきっかけに、WEBの中にあふれる情報も、キュレーションライターというかっこいいネーミングに踊ってしまっている人も、クラウドソーシングという新しいビジネスも、全部正しい方向を見出し、歩き出してほしいということです。

間違った手法を真なんてしまったライターは正しい方法を学べばいいし、クラウドソーシングは正しい方向で発展していくべきだし、キュレーションサイトだって、正しく運営されればすばらしい存在になるはずのもの。

不寛容社会の今、「キュレーションサイトなんてなくなっちまえ」「クラウドソーシングなんてムダな存在」と声高に叫ぶ人がたくさん出てきそうですが、「そうじゃない!」という方向に進むよう、あえて今はマイナスな部分をしっかり伝えていきたいと思います。

私が紆余曲折の末だどりついた、ディレクションフィの算出方法

f:id:radaso:20161107044024j:plain

フリーランスで仕事をしていると、「見積もりを出してほしい」と言われることがあります。何年たっても、これは難しい仕事であり、時間もかけたくないものです。

今回は、私がディレクションフィの算出をどうしているのかについて、自分の頭の整理も含めて書いてみます。

 

 ライターとディレクターの大きな違い

私は「ディレクションライター」という肩書を名乗っていますので、メインワークはライターとディレクターとなります。

ディレクションとは、雑誌で言えば「編集」にあたります。打合せでクライアントの要望をくみ取り、それを形にするための案をデザイナーなどと相談したり、進行管理をしたりと実に多岐にわたります。クライアントとの窓口になることも多く、気苦労も多い仕事です。

ライターに関しては、ライティングや下調べ、打合せを予測して所要時間を算出し、時給をかけて予算を算出しています。これは、ある程度の経験を積むことでできるようになるスキルのひとつ。

ところが、ディレクションに関しては、打合せにどれくらいの時間を要するのか、またどれくらいの修正が繰り返されるのかが読めないので、ライターと同じ方法で見積もりを出すことはできません。

 

言われたことをカタチにするだけではないディレクターの仕事

そこで私は、まったく別の方法でディレクションフィを算出しています。

その具体的な数値を書く前に、ディレクターの仕事幅について、私の考えを書かせていただきます。ディレクターにはいろいろな人がいて、クライアントさんに言われたことをカタチにするだけの人もいますが、私はそれがすべてだとは思っていません。

WEBについても、印刷物に関しても、クライアントさんは達成したい目標があって、そのために制作物を作りたいと思っています。ただし、制作物をどう作り、どう活用すれば目標が達成できるのか、その具体的な手法については私の方がわかっています。

そこで、クライアントさんが少しでも早く、そして効率的に目標を達成することができるよう、積極的に提案を行っています。

例えば、「サイトへのアクセスが伸びない」という理由でサイトリニューアルを考えている場合、洗練されたサイトを見るのはアクセスした人であり、離脱率が下がることはあっても、自然にアクセスが伸びることはありません。

私にとってディレクションは、言われたことを形にするのではなく、その裏にある目標を達成するためにベストを尽くすこと。もちろん、クライアントの意向は最大限に組み込みますし、制作会社の立場がなくなるようなことはしませんが。

 

1割+2割=3割と考えています

さて、前置きが長くなりました。ディレクションフィの算出です。

私の場合、製作費の総計に対して、一定の割合で提示するようにしています。その割合は3割です。

つまり、100万円のサイト作成であれば30万円。私が窓口となり、WEBサイト作成全体の見積もりを出す場合、私が3割をいただき、残りをデザイナーさんやコーダーさん、別のライターさん等に割り振ります(条件やかかわる人数によって変動することもあります)。

制作会社さんが入っている場合、「3割」という数値を伝えているので、100万円の中に3割を含めることもあれば、100万円に3割をプラスして合計130万円としているところもあるようです(合計130万円だから43万円じゃないの?とは言いません)。

ここにたどり着くまで、紆余曲折がありました。

ライターと同じ方法で算出しようとしていたこともありますが、結果として打ち合わせが多いときに敗北感を味わったり、逆に打ち合わせが少ないときに、申し訳ない気持ちになったりしたこともあります。

そこで、この算出方法には無理があることに気づき、割合で算出することにたどり着きました(3割という数値を基準にする以前には、1割、2割だったこともありますが、どうもしっくりこないものでした)。

3割の内訳は、1割はプランニング(全体設計)、2割は進行と考えています。制作会社さんで、進行管理を別の人が担当することもあります。いわゆるスケジュール管理が仕事なのですが、かえって仕事がスムーズに進まなくなることも多いので、「それは別」と言い切っています。

プランニングに関しては、すでに完成している場合、これはいただかないこともあります。

 

偉そうに書きましたが、実は、他のディレクターさんが、どれくらいのフィをもらっているのか、どうやって算出しているのかを知りません(というか、気にしてません)。

知り合いのWEBディレクターが「3割が基準」と言っていて、偶然の一致で驚いたこともありますが、それだけで一般的な数値だとも言えません。

見積もりに関しては、難しいと感じている人が多くいるでしょうが、結論は「自分で納得できる数値を作り出す」ということ。そして、金額を出したら、それに見合う仕事をするために全力投球です!

 

「過労死をお望みですか?」と平然と言ってみたら、クライアントが思わぬ動きにでた!

f:id:radaso:20161030150746j:plain

世の中には、無謀なことを平気でのたまうクライアントが存在します。しかも、少なくない!

今回は、と~んでもない指示をひょうひょうと言うクライアントの横暴さに、思わずブチ切れてしまったお話。でも顛末は思わぬ方向に…

 

 横暴な担当者と姿を出さない上司

そのクライアントは、態度が横柄で話を聞かないことで有名な方でした。しかも最悪なのは、それはあくまでも窓口の人間であって、その後ろには打ち合わせに出てこない上司がいるということ。

横柄君は人の話をろくに聞かず、適当なことを上司に報告するため、筋道が通らない修正がたびたび繰り返され、

「そこを修正をすると、今回の企画の趣旨が変わってしまいますけど?」

といってものら~りくら~り。そして最終的には、「上が変えろっていってるんで」という言葉を伝家の宝刀かのように振り下ろす人です。

が!!

趣旨からずれてしまえば、企業としても意味がなくなるので再修正して元に戻るとか、さらに修正ということを繰り返していました。

そんなこんなな状況で、私は「も~受注は無理。この仕事で最後にしよう」と思っていたわけです。

 

 夜8時にでた修正指示内容に、「はぁ?」

その最後の仕事は、会報誌の制作。私はディレクションと一部のライティングを担当していました。

いつものように、のらりくらりの指示と確認を受けながら、やっとの思いで最終OKをもらい、いよいよ明日は印刷に出すぞ!というタイミングで電話が鳴ります。

「あ~、夜に申し訳ないんですけど、修正してもらいたい場所があるんですよ」

私は不吉な予感を感じながら、「どこですか?」と聞くと・・・。

「今まで、赤系の色を多用してもらってきたんですけど、イメチェンしたいんで寒色系に変更してもらえますか? あと、取材先から変更希望があったんですけど、伝えるの忘れてました。今から送ります」

この連絡があったのは夜の8時。

ふざけんなよ!と思う言葉を無理やり飲み込んで、ひとまず修正指示を待つことに。

5分後、送られてきた内容は、「記事中にネガティブな印象を与える内容が散見されるので、すべて削除し、別の内容に書き換える」・・・のみ。

3000文字弱、3ページにわたるインタビューの修正です。原稿を書く前にも、初稿を出す段階でも、「ネガティブな内容が多くなるので、修正の必要があれば書き換えます」と伝え、二稿、三稿と重ねたはず。

この段階でその指示は何?なめてんの?

深呼吸ののち電話をかけました。

・色の変更は簡単なものではないので、時間かかるよ!

・文章の修正はやるにはやるけど、前々から確認を重ねてきたことなのになんで今?このタイミングなら、具体的な指示出してよ!

すると、驚きの返事が。

「上の指示で、発行日は変えられないんで、明日の朝までにやってもらわないと困るんすよね~」

さて、ここで私の脳内で、ぷっち~ん!!!!と何かが切れる音がしました。

 

 こいつじゃ話にならん!と思い次の行動に・・・

「わかりました」

と電話を切り、再度深呼吸をして、名刺ホルダーから名刺を出し、再度電話しました。

相手は、横柄君の上司。

内容はこれまでの経緯と先ほどの指示内容。それを実行するのに要する時間。

「2日寝ずにやれば発行日には間に合いますが、御社は過労死をお望みですか?」

まぁ、2日寝ないくらいで過労死はしないんですが、あまりの理不尽さを伝えるために、そういうしかなかったんです。

上司は黙って聞いていたので、速攻で仕事を切られるかと思っていました。でも、それは覚悟の上。それほどの無茶だったのです。

 

 上司は紳士だった!

沈黙の後、上司は話をしだしました。

「大変申し訳ないことをしてしまった。原田さんとは長く仕事をしていきたが、報告を聞く限りでは問題を感じてなかったし、成果物にも満足してきた。横柄君とペースが合う人間は珍しく、原田さんは経験があるのでうまくいっていると信じていた。そんなに無理をさせていたとは・・・」

しかも、寒色系にする話は一か月以上前に決まっていたことや、インタビュー記事がネガティブになっているのは了承済みであること(そもそもインタビュイーを選んだ時点でネガティブになるのは予測できていた)など、ふむふむな内容でした。

電話が終わったのは9時過ぎ。

上司さんには終始紳士的な対応をいただき、翌日、再度顔を合わせて打ち合わせをすることになりました。

 

 ギャラ2割増しで契約継続!!

さて翌日・・・

打ち合わせに行くと、横柄君は平謝り。上役は、打ち合わせに自分が同席することを条件に、今後も仕事を継続してもらえないかと打診されました。

しかも、これまで不要な手間をかけていた分ということで、費用は2割増し。とてもよいお取引を続けました。

この「事件」は2年前のこと。この後も仕事は継続し、この秋、上役が退職されるということで、私もお取引を終了させていただくことになりました。

夜に上役に電話をするのは常識がない行動ですが、何でもかんでも我慢すればいいというものではないと私は思っています。そこで「もうやめます」というのはひとつの解決策かもしれません。実際に、多くの人がそうしているでしょう。

でも、時には筋を通してもいいのではないかと思うのです。私のもとには、ライターやデザイナーなど、複数のサポーターがいました。この件は、私だけの問題ではなく、大切なサポーターたちの仕事ぶりにもかかわるものでした。

言ってよかった。

それが素直な感想であり、私のそれからの仕事スタイルを方向づけた一件でもありました。

沖縄の「土人」発言事件で感じた、マスコミが作る新しい差別の構図

f:id:radaso:20161025011901j:plain

沖縄での機動隊による「土人」発言が差別だと大問題になっていますが、多くの人が感じたのは「土人って何?」「差別用語なの?」という疑問。ところが、そんな現状は存在しないかのように問題はどんどん大きくなっています。

過去に、沖縄に対する差別があったのは事実ですし、それをうやむやにするつもりはありません。ただ、今となっては感じていない人の方が多い沖縄への差別を、情報発信という名の元でマスコミがあおっていく。そんな危険性を露呈したと感じているのは私だけでしょうか?

 

沖縄の警備を大阪府警が行っていた

まずは、今回の件のおさらいから。

沖縄の米軍訓練場のヘリパッド移設工事に反対する人たちの行動を警備していた機動隊員がもみ合う中で「土人」と発言したことが今回の問題のスタートです。この機動隊員が大阪府警の人だったため、「本土の人間が沖縄の人を差別しているから、そんな発言がでるんだ!」とマスコミが取り上げ、大騒ぎになりました。

さらに、大阪府の松井知事が「表現が不適切だったとしても一生懸命、命令に従い職務を遂行していたのがわかりました。出張ご苦労様」とツイートしたことで騒ぎは拡大し、「辞職してほしい」というクレームまで寄せられていると報道されています。

 

以前は身近にあった差別用語

私が最初にこの事件を耳にしたとき、「そういえば、土人って最近聞かない単語だな」と思いました。私が小学生の頃は、今ほど差別用語に敏感ではなく、土人をはじめ、今となっては差別用語として使用されなくなった言葉があふれていました。

ただし、それらの差別用語を実際に誰かを差別するために使っていた記憶はなく、他の一般的な単語と同じように、普通の言葉として使っていました。

例えば、中国や中国人を表現する「支那」という表現。

25年ほど前、某ラーメンチェーンがチェーン展開を本格化するにあたり、ラーメンを支那そば」という言い方に変えようとしました。店頭用の大きな垂れ幕も用意し、「さぁ行くぞ!」となったタイミングで、「支那」は差別用語だという指摘を受け、急きょ使用を中止するのを目の当たりにしました。

常識がなかったと言われればそれまでなのですが、そのチェーンの社員の年齢は総じて若く、誰も差別用語だと思わなかっただけでなく、むしろお洒落な言い方だとすら感じていたので、大きな驚きを感じたのです。

もちろん、差別意識がなくても、それを聞いて「差別されている」と感じる人がいるのであれば使用は避けるべきですが、だからと言って意識なく使ってしまった人をみんなで寄ってたかって非難するのはあまりにも軽薄。「それは差別用語だから、使用すべきではない」と教え、反省を促すというステップが最初にあるべきです。

 

悪意があった前提で差別を作り上げたマスコミ報道

今回の件で、土人と発言した2人は20代の若者です。彼らに差別意識があったかどうか、真実は分かりません。ただし、マスコミに取り上げられて早々に「土人」と発言したことを認めたことを見ても、差別意識はなかったか、かなり薄かったのではないかと推察しています(実際に差別意識はなかったと発言しています)。

ところが、マスコミは競うようにして騒ぎ立てます。

土人は差別用語として認識されている言葉だとわざわざ説明をした上で、「本土の人は沖縄を侮蔑しているから、こんな発言が出る」とか「私はずっと差別されていると感じてきた」という人の意見を取り上げ、本土の人は沖縄の人を差別しているという構図がずっとあるかのような方向付けをしていきました。

その結果、何が起こるでしょうか?

これまで差別を感じていなかった沖縄の人の心の中に変化が生まれてきます。「そんな風に思われているなんて知らなかった」と衝撃を受け、沖縄に住む親に「つらい思いをしてないか?」と心配され、「そういえば・・・」と差別とは関係のないことにまで敏感に反応するようになり、人間関係に隙間を作っていきます。

ちなみに私の実家は大阪にあり、夫は沖縄びいきの東京人です。「大阪の人は沖縄への差別意識が強いらしい」とどこから仕入れてきたのか分からない情報を元に怒りを感じているようですが、私が育った中で沖縄の人を特別視する風習に出会ったことはありません。今回の報道は、こういった無用な隙間を作っているのです。

 

差別を感じていない世代は戸惑っている

今回の報道を受け、「土人」という言葉について何人かの人に聞いてみましたが、「差別用語だと言われればそうだよね」という程度の人はいましたが、差別用語だと確信を持っていた人はいませんでした。「土人」という言葉を知らない人もいました。

きっと幼い日に、数回は土人と言っていたであろう私も、そして友人たちも、そこに差別的意識はなく、今では「アベック」や「花金」という言葉が使われなくなったのと同じように、今は使わなくなった古い言葉のひとつとして認識しているにすぎなかったのです

だから使っていいとは言いません。

ただ、今回のことでマスコミは、「差別はある」と断言してしまいました。残念ながら、過去には沖縄の人がそう感じることがあったのが事実ですが、少なくとも今は、本土の人の意識の中に差別意識はほとんどありません。多くの人は、「そんなこと思ってないよ」と驚きさえ感じたでしょうし、私の周りの沖縄の人々も「そんな風に感じたことがない」と戸惑っています。

でも、この戸惑いは、自分が知らないだけで差別は潜在的に存在し続けているのだという作り上げられた既成事実によるものであり、当面は消えることのないものです。

 

沖縄は、先の大戦で戦場と化し、その影響や地理的条件もあり、今でも米軍基地の多くが存在し、様々な問題と心労を感じているのはまぎれもない事実です。そんな歴史的な背景から、沖縄の人が差別問題に敏感になっている面もあるでしょう。その一方で、沖縄問題に無関心な本土の人が多いのも現実であり、解消されなければならない重要項目のひとつですが、だから差別意識があるというものではありません。

マスコミの影響力は、その質に関係なく、大きなものです。センセーショナルに伝えることが社会の関心をひき、より大きな存在感を示すことにつながるために、いつのまにか偏った情報や決めつけをしてしまうのも分かっています(私もそんな中で生きているライターです)。

でも、自社の存在感を増したいための行動が、世の中の不和をうみだし、住みにくい世の中を作っていることを、いい加減、気づいてほしいものです。

資生堂のCM中止に感じた不寛容社会を形成する女性たちの暴走

f:id:radaso:20161008015434j:plain

資生堂のCMが放映中止になりました。理由は、批判的な意見が寄せられたから。批判をした人は自分の信じる正義を主張し、そのために放映が中止になったことで承認欲求が満たされ、さぞ満足していることでしょう。

でも、あのCMはそんなに差別的だったのでしょうか?

不寛容社会と呼ばれる現代の闇と女性の特性について持論を書いてみます。

 

まさに重箱の隅をつつくような「不寛容社会」

先般の熊本の震災の時に「不謹慎狩り」が横行しました。中には狩られてしかるべきものもありましたが、女優さんが笑顔の写真をSNSにアップしたから不謹慎とか、自身が被災者である女性タレントさんが必死に困難に立ち向かう日々を送る姿をSNSにつづったら「他の被災者に失礼だ」とバッシングされたケースもありました。

こういったバッシングは、かなりストレートで辛辣な書き方をするケースが多く、強く人格否定し、心をえぐってしまいます。自覚があるか分かりませんが、再起不能を強く望んでいるんだろうとしか思えないものもあります。

今回のCMへの批判もそうです。25歳をテーマにしたコスメのCMで女友達に「今日からあんたは女の子じゃない」とか、男性上司に「(頑張っている様子が)顔に出ているうちは、プロじゃない」といった発言が批判につながったようですが、その一方で「いいCMだ」とか「どこがダメなのかわからない」といった声もあります。肯定派の中には、「言葉選びは甘かったかもしれないけど、女性を応援したい真意は伝わった」という人も含まれるでしょう。

おそらく、強烈な不快感を持ったのはごく一部。でもおそらく、その批判の言葉はハードなものだったと思います。そうでなければ放映中止にはなりません。

このような面倒な今を「不寛容社会」というようですが、まさに他の意見の寛容を許さない、心のゆとりがない現象を言い表していると思います。

 

共感者がいると安心できる女性の特性が批判力を高める?!

さて、この不寛容社会には女性の特性が大きくかかわっています。

その証拠に、震災時の不謹慎狩りのターゲットとなったのは圧倒的に女性が多かったと記憶しています。そしてCM放映中止になったのは今回の資生堂のほかに、ルミネが記憶に新しいでしょう。これも男性上司がおしゃれにあまり気を使わない女性にダメ出しをするものでした。

ちょっとでも不快だと感じると、その本質を見ようとせずに、一気にヒートアップする。

批判を書く人は「匿名」です。自分が何者なのかを明かさないでいい安心感から、より強い言葉を選ぶようになります。なぜなら、匿名である以上、直接的な反論を受けて傷つくことがないからです。

もちろん、一人でクレームを言ったところでどうにもなりません。でも、彼女たちは自分と同じように不満を感じる人が他にもいて、自分の信じる正義を振りかざせば同調してくれる人がいることを知っています。これはまさに女性が得意とするところ。共感をベースに広がりを形成する女性は、例え自分が少数派でも、共感してくれる人がいるのであれば安心して正義を主張できるのです。

それは学生時代、みんなで先生に不満を言いに行った姿を彷彿させるのは私だけではないはず。また、小学校のPTAなどで何人ものお母さんが集団で、ひとりの先生や保護者を糾弾している姿でもあります(それがイジメじゃないの?と何度も思ったものです)。

 

批判にはたくさんの快感が伴う

この批判はたくさんの満足感を与えてくれます。たとえ言葉尻しかとらえず全体を見ていない結果、腹を立てているのが現実でも、本人は自分の正義に従って主張するのですから、それだけでも快感が伴います。

さらに、自分に共感してくれる人がいることを知ればさらに満足度はアップし、今回のCM放映中止のようなわかりやすい結果を得たときには、最高潮の達成感を味わうことができ、自分の承認欲求があふれんばかりに満たされます。

「私のチカラで社会が動いた!」と思うのでしょう。そうなると、「何がダメなの?」「なんでそんなにヒステリックになってるの?」と言っている人がたくさんいようがお構いなしです。さらに、この満足感を一度味わうと、「もう一度」と思うばかりに次はさらに強い批判をするようになります。それが正義と信じて・・・。

 

この記事自体が女性蔑視と言われそうですし、男性の中にも同じような行動をしている人もたくさんいることを知っています。さらに言えば、「賛同者の有無は関係なく、私は自分の感じた不快感を単独で伝えただけ」という声もあるでしょう。

そうですね。あなたは正しい。

今は不寛容社会だしね。

プロカメラマンが、趣味カメラマンほど高価な道具を購入しない理由

f:id:radaso:20161001222733j:plain

私はライターだが、時には撮影もやる。そのための一眼レフも持っているし、結構お高めのレンズも購入したが、それは趣味兼用のカメラだったから。周りを見渡せば、そこまで高いレンズを購入していないプロカメラマンも多数。そこにはまっとうな理由がある。

 

撮影もセットで依頼される取材のため一眼レフを購入

取材の経費はピンキリで、当然安すぎる案件は断るが、例えば「写真もお願いできるならプラス1万円払える」となる案件には食いついていた時代がある。こういった場合、写真にプロカメラマンと同程度のレベルは求めない(カット程度のもの)ことが多いので、逆に安価にカメラマンを連れて行って気を遣うより気楽だ。

中には、「WEBなんで、スマホでとってきてくれればいいですよ」というケースもあるが、さすがにそれは“ライター”としてのプロ意識が許さないので、ちゃんと一眼レフで撮影してくる(プロのライターとして、コンパクトカメラとかスマホで撮影したような適当な写真を付けると文章の価値も下がる気がする)。

私はそのために10年ほど前に一眼レフを購入した。

 

高級なレンズに変更したのは息子を撮影するため

その一眼レフは、本体に通常レンズと望遠レンズがついて20万円強のものだったが、わざわざ上等なレンズに変更した。特に望遠レンズのほうは気合を入れ、総額40万を超えたと記憶している。

なぜ、高価なレンズに変えたのか?

答えは簡単。当時、サッカーに明け暮れていた息子たちのキラキラした感じを写真に収めたかったからだ。そのために、プラス20万以上のお金をかけることに、何の躊躇もなかった。

その後、カメラマンとその話をし、「ずいぶん思い切った買い物をしましたね」という話になって当時の私は驚いた。そのカメラマンの持つレンズは、私のレンズより安価なものだったからだ。

このカメラマンが貧乏で安いレンズしか購入できなかったというわけではないし、すべてのカメラマンが高価なレンズを購入しないわけではない。実際、私の知るカメラマンは、「低・中・高」の3つのプライスゾーンがあれば、「中」を購入している。

一方、カメラを趣味にしている人はといえば、「高」の購入をステイタスにしている人が少なくない(特にカメラ自体を自慢する人には多い)。

 

プロにとってカメラ機器購入は「投資」

この違いは、一見不思議な感じがするが、その理由を考えると納得できる。

カメラマンは写真を撮影することを生業にしている。カメラはそのための「道具」であり、その購入は「投資」であり、費用対効果が重要視される。とりあえず高価な道具を選択しようと思うようでは、当然収入より支出が高くなり、破産してしまうだろう。

私の周りで、賞をとったカメラマンが何人かいるが、みんなが最高級の道具を使っているわけではないし、今は最高級機器を使っている人でもギャラのアップに合わせて道具にもお金をかけるようになっただけで、最初から道具ありきでのし上がってきた人はいない。中には、まともなカメラがない状態でスタートした人もいるほどだ。

一方、趣味のカメラに費用対効果は関係ない。そこから収入を生み出すことはないのだから、自分が満足するかどうか、納得するかどうかが購入のポイントとなる。「俺は高い道具を使いたいんだ!」という人は、最高級品を買えばいい。それはまったく間違っていない。

 

プロにとって重要なのは道具より「技術」

ただ、時として、高級機器でないといい写真が撮れないと思っている趣味カメラマンは、プロカメラマンの道具を見て、「プロっていっても、こいつはたいしたことないな」と決めつけることがある。

カメラは道具であり、その良否は「写真」で判断すればいいのだが、技術のなさを道具でカバーしようとする人は結局写真を見る能力もないために、わかった風なことを口走ってしまう。残念だ。

カメラマンは安い道具でもプロの写真を撮るし、そのための技術を日々磨いている。しかも、どんなシチュエーションの撮影でも、被写体が何でも高いクォリティを保つために数多くの道具をそろえている。これこそ、「仕事」ではないだろうか。

最後に、この記事を書く気になった理由を書いておく。

外付けのストロボを購入する必要がでたために、プロとアマに話をした。プロには、「とりあえずというなら1万円くらいのものでも使えなくはないが、使い勝手を考えると2~3万円のものを買えばいいんじゃない?」と言われた。

一方アマには「“仕事”で使うんなら、○○っていう5万のか、もうワンランク上の○○がいいけど、安く買っても7万はするよ」と言われた。

せっかくアドバイスをもらっておいて申し訳ないが、高いストロボのポテンシャルを発揮させる技術は私にはない。そしてあなたは、カメラの仕事の何を知っているのかをまず教えてほしい。

後がなくなった私の最後のダイエット宣言(のつもり)

f:id:radaso:20160923043744j:plain

私に会ったことがある方はご存知の通り、私は超のつくおデブです。体重に関しては、そんじょそこらの男性にも負けておりません!

でも諸処の事情があり、本当にやせないとやばいことになりそうです。

何を公開してるんだよ!と言われそうですが、ほんとの自分なので包み隠さず書いていきます。

ちなみに、女性特有の病気の話ですので、苦手な方は読まないように!!

高校生時代から、ずっと抱えてきた不調

私は高校生の頃からホルモンバランスが悪く、いわゆる生理不順にずっと悩まされています。

しかも、「生理が来ない」とかいうタイプのものではなく、どんだけ生理が続くの&どんだけ出血するの!という状態になります。血の池地獄を何度も目の当たりにするレベルです。

今考えると、望んだタイミングでポポンッと子供を産めたのは奇跡で、たまたまホルモンバランスがよかった24歳の時に「子供作るべ!」と思ったのがよかったようです。本能に従って正解でした。

そんな弱っちい子宮で2年連続ビッグサイズの子供を産んだのも原因かもしれませんが、次男を産んだ26歳以降、20年間ずっと子宮の病気に悩まされてます。

病名は「腺筋症」。これに「子宮筋腫」も併発というとんでもないことになっていて、今は2歳児の頭くらいに子宮がビッグサイズになっています。

手術に踏み切れなかった5年前の乙女な夏

そんな私なので、これまでいろいろな産婦人科に通い、何度か「子宮をとりますか?」と言われています。

前回は41歳の夏。

でもその3月に東北の震災があり、たくさんの命が亡くなっていて、もう妊娠は望んでないし、授かれる子宮でもないのに、手術に踏み切れませんでした。ここは何とも複雑な女&母心で、月の半分は身動きができないほどの状態で、1度の手術で、それがすっぱりなくなるというのに、何が何でも子宮を守らなければ!という思いにかられました。

実はこれ、子宮と対になってる卵巣とホルモンの関係から、女性によくある症状らしく、中には子宮をとった後に、虚無感から生きる気力すらなくなる人がいるそうです。私の場合、心臓に毛が生えているので、そこまでにはならなそうでしたが・・・笑

手術の覚悟はできたのに、すんなりいかない現実

時が過ぎ、46歳になり、極度の貧血症状が出てきたので、再び産婦人科通いが本格化。そしてドクターから、

「原田さん。もう貧血治すにはとるしかないよ。これはひどい

と最後通告を受けてしまったのです。

でも不思議なもので、5年の月日が私の考えをすっかり変え、「痛くないならとってもいいかな」と意図も簡単に受け止められたのです。年齢も関係あるのかも。

ところが、すんなり手術を覚悟できた私には、2つの大きな問題が立ちはだかり、すぐ手術はできない状況になっていました。

それが、極度の貧血と肥満。

まぁ、わかってたけど・・・。

貧血の方は、注射や薬を使えば数か月で改善するようで、そこはある意味問題なし。ところが、もうひとつは・・・

傷口がパックリ開く恐怖!!

手術は開腹手術となります。お腹を開かない方法もあるのですが、私の場合、子宮が大きくなりすぎて、開腹しかないそうです。

で、腹切りと肥満は大きな関わりがあり、特に気になるのは次の3つ。

1.麻酔が微妙になる

2.脂肪ですべって手術がやりにくい

3.後日、傷口がぱっくりの危険性あり

って、痛みも嫌だけど、傷口パックリって何よ!

ということで調べてみたら、脂肪は血流が悪い部分なので傷がふさがりにくいということらしい。そのため急がない手術の場合は、やせて脂肪を落としてから手術なんですと! お腹なんて、一番脂肪が多い場所。とほほ・・・

なんでも私の場合、10キロ以上のダイエットが必要らしい。

でも、手術で麻酔が効かないとか、傷口パックリで腸が見えるとか、そんなおっそろしいことが現実にあると思えると、さすがにダイエットできそうな気もします。

今思えば、5年前であれば体重もクリアしていたし、子宮も今ほどでかくなかったし、若かったから、すんなり手術できたなと考えたりもするけど、自分で選んだことなので後悔はしてません。

やっぱりダイエット、するしかないよね。それしかない。ってか、そんなのずっとわかってたしねw

問題はどうやるか。

体重を支えきれずにヒザが猛烈に痛いとか、更年期でちょっと無理するとありえない汗をかくとか、いろいろ大変な感じだけど、とりあえず食事に気を付けて動かなければ!

目指せマイナス12キロ。

いや、この際、もっとやせてやるかっ!!